孟子
梓匠輪與(ししょうりんよ) 『孟子もうし』滕文公とうぶんこう・下
孟子は、現在より2300年ほど昔の大儒学者。著作『孟子』滕文公とうぶんこう・下に(梓匠輪與)とあります。梓(建具家具職)匠(大工職)輪(車作職)與(車台作職)。私が聞いた限りでは、木工職の最古の記述と思います。 |
宮本武蔵 五輪書
地乃巻四、兵法の道を大工に譬えると、大将とは
一、兵法の道大工にたとへたる事、大將は大工の統領として、天下のかねをわきまへ、其國のかねを糺し、其家のかねを知事、統領の道也、大工の統領は堂塔からんのすみがねを覺、くうでんろうかくのさしづを知り、人々をつかひ、家〳〵を取立る事、大工の統領も武家の統領も同じ事也、家を立るに木くばりをする事、直にして節もなく、見つきのよきをおもての柱とし、少ふしありとも直につよきをうらの柱とし、たとい少よはくとも、ふしなき木のみざまよきをば、敷居鴨居戸障子と、それ〴〵につかひ、ふしありとも、ゆがみたりとも、つよき木をば、其家のつよみ〳〵を見わけて、よく吟味してつかふにおゐては、其家久敷くづれがたし、又材木のうちにしても、ふしおほくゆがみてよわきをば、あししろともなし、後には薪ともなすべき也、統領におゐて大工をつかふ事、其上中下を知り、或はとこまはり、或戸障子、或敷居鴨居天井已下、それ〴〵につかひて、あしきにはねだをはらせ、猶惡きにはくさびをけづらせ、人をみわけてつかヘば、其はか行て、手際よきもの也、果敢の行手ぎわよきと云所、物毎をゆるさゞる事、たいゆう知事、氣の上中下を知事、いさみを付ると云事、むたいを知と云事、かやうの事ども、統領の心持に有事也、兵法の利かくのごとし
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古い時代は、大工職人の内の器用な者に戸障子を制作させていたことを伺われて興味深く思いました。大工職より建具製作を専門とする建具屋が登場するのは、江戸文化文政時代(1804年~1830年)ころと聞いています。
(時代比較)宮本武蔵1584年≒~1645年≒ 江戸幕府1603年~ ペリー来航1853年 明治維新1868年
唱歌 蛍の光 ♪すぎの戸を
螢の光、窓の雪、
書讀む月日、重ねつゝ、
何時しか年も、すぎの戸を、
開けてぞ今朝は、別れ行く
歌詞の(すぎの戸)とはなんでしょう、材料に関わらず板戸全般が杉戸(すぎ戸)のようです。杉戸は今日では、お城など文化財的建築物にしか残っていませんが、古い時代は町屋,農家に普通に使われておりました。唱歌(蛍の光)での♪すぎの戸を は(過ぎる)のかけ言葉でとの事です。
落語と建具屋半次(半公 半ちゃん)
落語の登場人物に建具屋の半次がおります。職人仲間は親しみを込めて半公と呼ぶ、女性たちは半ちゃんと呼んでいる。落語(汲みたて)では町内の若い衆憧れ小唄の師匠と良い仲となり、仲間から大いにいじられます。落語(蛙茶番)(酢豆腐)では「小間物屋のみい坊が惚れてるてょ~」よとおだてられます、半次さんもその気になってますから惚れっぽい性格のようです。(酢豆腐)では飲み代のない若い衆に酒の肴代をせびられますが渋々でも出してやってます、他の若い衆が全く一文無しなのに半次さんは何時も多少の金は持っているようです、半次さんは仕事が出来るし稼ぎもよかったのでしょう。他の落語(紙入れ)などでも枕噺に(あのかみさん建具屋の半公を間男にしてだってよ)と噂されてます。
これら落語はYouTiubeにて古今の名人の噺を聞くことができます。
落語の建具屋半次が好い男や惚れっぽい人の好い奴に演じれるのは同業としてうれしいことです。では何故?幾つか思い当たりたいと思います。落語中興の祖(烏亭焉馬 うていえんば)は本所相生町の大工棟梁の子です。歌舞伎役者三代目尾上菊五郎は江戸小伝馬町の建具屋の子です。大衆芸能の落語の流行と、歌舞伎の人気と、建具の専門職化はほぼ同じ時代であり、落語、歌舞伎の実力者の親が大工棟梁、建具屋であったので悪く演じられにくかった。また、建具作りは職人の中でも比較的賃金が良かったとも思えます。そして建具製作は屋根内作業なので、外仕事の職人達に比べ比較的に身ぎれいだったでしょう。故に建具職人は女性達に人気があり、外仕事の職人仲間からは少々やきもちを焼かれ、落語の筋ではちょいといじられた。。。。。などと他愛もなく思っております。
尾上菊五郎 半次さんかなぁ^^ みい坊の小間物屋かなぁ^^